私の両親は当時は大変だったと話してくれました。kazzy.kさん02/16
先日(とはいえ正月の話なんで結構前の話)、ウチの両親と色覚異常について話す機会がありまして、私が学生だった頃の話を聞きました。今まで推測でしかなかった両親にとっての色覚異常の具体的な話を聞き、なんだか複雑な心境になってしまいました。誤解していた部分と推測が当たっていた部分があり、それがどちらとも少々哀しいという感情に行き着いてしまったわけです。
私には兄がいます。彼も色覚異常者です。
(どうでもいい話ですが自分に色覚異常者という言葉を使うのは抵抗を感じないのに、他人にその言葉を使うとなるとちょっと引っ掛かりを感じてしまうのは何故?)彼は私と違い、理系を専攻し色々と苦労をしたようです。
私の両親はこの兄が進学するにあたって相当悩んだそうです。それこそ眼科にかかり、自分達で専門書をひも解き、遺伝の話にまで及び、母親は郷里の親類を調べ上げたそうです。しかし治療法がないことを知り、途方に暮れたそうです。当時は大変だったと話してくれました。今考えると情報が決定的に不足した中での子育てです。その困難さは想像に難くありません。
私はといえばその当時、立派に反抗期を迎えており、両親の苦悩なんぞ何処吹く風でした。おかげでその苦労を目の当たりにもせずに通過してしまったのです。
おまけに根っからの文系人間だった私はその壁にぶちあたることはありませんでした。私と両親の間で交わされた色覚についての話は実に単純なものでした。
「色弱だから理系に行くと大変だよ」
「分ってる。オレ、文系。大丈夫」
今思えば、誤解はここから始まったのだと思います。
「あの時、詳しい話、しなかったよね?」
「そうだった?」
その会話の後、私は猛烈に後悔してしまいました。
私の両親はあの当時、色覚異常が私に立ちふさがる壁にならないと思ったからこそ詳しい話をしなかったのです。
両親が自分達で問題を納得し、消化してしまったためにそれ以上掘り下げることを避けたのかもしれません。
詳しい話をしなかったことを怨むのは筋違いだということは分かっていました。しかしその理由を単なる認識不足と誤解していた自分がとんでもない恥知らずな人間だったことに気付いたわけです。そして推測通りだったことといえば‥‥。私の両親は未だ色覚異常という問題の延長線上に個人と社会の軋轢という問題があるということにまで辿り着いていないようでした。
障害にならないのなら子供を混乱させまいとしてあえて詳しい話をしなかった優しさ。必要がないのなら触れずにすませようという弱さ。それを汲めなかった私のあさはかさ。そして、色覚異常を進学と就職の物差しでしか計れなかったあの当時の私。私の中で自己と社会の問題にまで発展することを予想できなかった両親とつい最近までの私。それを責任転嫁しかねない誤解。
誰が悪いというわけでもないのになぜか少しずつすれ違ってしまう。それが私が少々哀しいと感じたものの正体でした。
コミュニケーション。人にとってとても大事なものです。
特に親しい間柄では哀しいすれ違いが起こらぬように相手をきちんと見極めることが重要だと思うのです。
教育においては現実を一方的に押し付けるのも危険ですし、隠すこともまた誤解に繋がります。
子供の特性と時期を見計らって現実を教える。
これが理想ってやつですけど、それができれば誰も苦労はしませんか。いやぁ難しいもんですね。
簡単じゃないからこそ世の中誤解だらけなんですよね。人間、生きていくってのもなかなかたいへんだぁ。
なかなかに哀しい生き物なんですよね。人間ってのは。
などとわかった風な台詞を吐きつつこの辺で‥‥。
それでは。
それがホントの親の責務なんではないかと。そう思うわけです。kazzyさん03/10
でも、親と子供の関係ってホントに難しいですよね。
色々考えるんですが、これがいいっていう決定的な解決策がないっていうところがまた厄介でして。
おそらく、私が親になった時も悩む話なんでしょう。
そして同じ事を繰り返しそうな自分が怖かったりもします。当然、私の子供には色覚異常の発現はないのかも知れませんがこれは色覚異常に限った話ではありません。
いつ話すのか?そのタイミングの難しさがよく話にのぼりますよね。いつ子供に色覚異常ということを告げるのか?非常に難しい問題だと思います。
結果から言えばケースバイケースという実にいい加減な答えになってしまいます。これでは話にならない。話が終わってしまいます。いくらなんでもそりゃ拙いんで、もうちょっとお付き合い願います。
ここから先はあくまでも私的見解です(いつもですが)。子供もいないくせに偉そうなことをほざきますが、そこはそれ、私の子供時代の経験から学んだこと。
「んー、こんな風に子供を育てられたらいいなー」的な発言ということで、どうかご容赦下さい。
人は自分が興味を持てないものに関しては実に無関心です。
色覚異常者も色覚異常に対して無関心な人はとことん無関心です。私も以前はそうでした。だからはっきり言います。
親がいくら熱心に訴えたところで子供が興味がなかったらそれで話は終わりなんです。要は受信側の問題で情報がいくら有益なものであっても、受信側にその気がなければ無意味だったり歪にねじくれたりするわけですね。(当然、発信側が情報を制限したり、捻じ曲げたりした場合も後々機能不全に陥りますが)これはコミュニケーションが機能不全になっている状態そのものではないでしょうか?
それで思うわけです。子供に対する本当の教育ってナニ?と。子供の反応を見ないまま、親の主観・価値観をそのまま押し付けることは断じてコミュニケーションではありません。それは所詮一方通行の意思伝達でしかないのです。
こういう観点からいきますと、自ずと対処法が見えて来ます。
あくまでも「私なりの」ですが。
1.まず、肯定ありき。そんなこともあるんだよ。
2.そして、フォロー。別に特別ってわけでもないんだよ。
3.不安そうならば、具体的な解決策・代案の提示。
4.それでも思い悩むのなら、詳細をきっちり説明する。
5.あとは気を付けなさいと言うくらいにとどめる。
これに子供の年齢なども考慮して随時フォローアップしていく。
そんなところでしょうか。
鍵はあくまでも子供の反応を見ながらやっていくことにあります。
問題に対する理解力・判断力を確認しながら。
当然、親としては子供が壁にぶち当たる前になるべく情報をたくさん貯えておきましょう。そうすれば親も不安になったりパニックにならずに済みます。スムーズに問題解決に臨めます。それがホントの親の責務なんではないかと。そう思うわけです。
さて今回の話題は色覚異常という制限から連想された「枠」のお話です。 kazzyさん06/07
さて今回の話題は色覚異常という制限から連想された「枠」のお話です。
自分自身に言い訳してません?私はしょっちゅうやってしまいます(笑)。
だからこそ「こりゃイカン」と自戒の念を込めてこんな事を思ってみたりもします。
人間には何かしら枠というものがついて回ります。
この枠という概念はいろんな言葉に変化しますね。
枠・壁・部屋・檻・殻・限界・囲いetc‥‥。
私達の前に立ちはだかったり、外界を遮断したり、自己と他者の境界線を引いたり‥‥。
全ては自分の中に眼に見えない形で存在していて普段は全然意識しないのに、ある時不意に私達の目の前に現れて色んなことを考えさせてくれます。
当然、私達がこうやって話している色覚異常もその枠の一つなわけです。もしくは壁とも取れます。
私達にとってこの壁は自分の一部であるにもかかわらず、越えていかなければならないものです。
いや、越えていかなければ精神衛生上よろしくない事態を引き起こします。んー、分かり難い表現だな。
例えば、全てを色覚異常のせいにしてしまう、とか。
色覚異常を理由に自分の理想や憧れを諦めるとか。
そういうふうになってしまうと非常によろしくありません。
こういった場合、色覚異常という枠は檻として機能します。可能性を閉ざし、外界からの苦痛から逃げているのは自分であるにも関わらず、自分自身は檻のせいで外に出られないと思い込んでしまいます。
そうなったらなかなかその人は檻から出て来ません。
なぜならば、そこが苦痛を感じずにいられるからです。
自分を責めることもなく安穏としていられるからです。
檻を外側から壊してやっても本人には出ようという気がないんじゃあお手上げです。これはかなり厄介です。
同じ事はいろんなものに当てはまります。
「才能」だとか「器」だとか「分不相応の分」だとか‥‥。
人間誰しもぶち当たって悩むそういうわけの解らないお化けみたいなもの。
おまけに(こっちの方がかなり厄介)「自分らしさ」とか「常識」だとかいう価値基準。
これらは全部自分を閉じ込め、立ち向かう苦痛を和らげる檻としても機能します。そしてそこに嵌まった人間に限ってその生き方が賢いと思っている筈です。
身の程を弁えた分別ある人間と思っている筈です。
しかし自分で自分を諦め、自分を見限ってしまった人間に一体何ができると言うのでしょうか?何かを成そうとする気概なくしては成せる筈もありません。
諦観に捕らわれ、日々朽ち果てていくこととどちらが恐ろしい事なのでしょうか?
反対に何もなさずして全てを社会のせいにするのもやっぱり頂けません。これを「青臭い」だとか「若気の至り」といいます。この辺りを見極め誤ると「勘違い」と非難されても仕方ありません。
しかし、これらの言葉をこういう風に定義してしまうことに何の違和感も感じなくなったということは私ももう若くはないのだなぁ。
しみじみ。あ、いかん。また話がズレる(笑)。
キイワードは「冷静な見極め」ですね。
ここで私がぶちまけている言葉は当然理想論です。
しかし、思うわけですよ。それを理想と思ってしまったらいつ迄経っても理想のままなんではないかと。理想は手元に引き寄せる努力があってこそ実になるものではないかと。そんなわけで今日もひたすら理想をたぐり寄せてみる。何が釣れるかな?
ヤカンやゴム長は嫌だぞ。なに言ってんだオレ。
私達にとって色覚異常は私達の内部に存在する切り離して考えることなどできないものです。
それならば、肯定してしまえと。
肯定して冷静に見つめればどうってことないんです。
そこからポジティブシンキングに移行することなど朝飯前。実に簡単なんです。ところが、他人や社会がそれを許してくれない場合がある。悪意はなくとも意識させられてしまう。
それが実にツライ。
そういう状況が私達を萎縮させ、檻の中へと追いやる。これはもう悪循環としかいいようがない。このループを断ち切る為にはどこかで割り切らなければなりません。
割り切る(開き直る)にあたって本当に必要な思考は先にも述べた通り。あくまでも「冷静な見極め」です。
つまりは八つ当たりではなく、主張として押し通すべきことは押し通す。これを「自己正当化」という(笑)。
私等は悪くありません。親も悪くありません。ましてや祖先や遺伝子を怨むのは筋違いです。だからブーブー文句を垂れてやりましょう。なんでこんなに肩身の狭い思いをしなくちゃならんのだ!と。愚痴をこぼすのではなくあくまでも主張です。主張。
ある心理学のお偉いさんはこのような事を言ってました。
「部屋は閉ざすためのものでも破壊するためのものでもない。要は扉を自由に出入りできれば何の問題もないのだ」うむ。素晴らしい。壁を壁と捉えず、檻を檻と捉えない。そして扉のある部屋だと捉えてみる。
いつでも出る事ができ、いつでも戻る事ができる場所。そうと考えれば何事も怖るるに足らず。壁をブレイクスルーした人も壁の前で困ってる人の立場に立って世の中に物申す。
これが理想的な出入り可能な部屋ではないでしょうか?更に言えば守りに入れば防御壁として利用し、攻めに転じる時には邪魔だから取っ払う。
これが本当に賢い使い方。ですよね?
捉え方ひとつでこんなにも違うわけです。
そんなこんなで「自分に言い訳してませんか?」というお話でございました。
おぉ!珍しく綺麗な終り方だ(笑)。
タテマエと色覚異常の関係ですか。うん、確かに難しい話ですよね。 kazzy さん01/11
まいど。kazzy.kっす
(段々ノリが軽くなって来てる‥‥)。
管理者からは「爆発的」と形容され、さる人からは「連載」とまでいわれ、果てには「暴露をアップし続ける恥さらし」と自分で公言してはばからない今日この頃。いつまで続くんでしょうか?これ‥‥。
って、自分が解かんなきゃ誰が解かるってんだ?おい…。
管理者であるTanaka様。ご苦労様です。スミマセンね。
いやホントに。ペース落とさなきゃなあ。
なんだかHPジャックやっちまってるような気分。
さて、本題。
タテマエと色覚異常の関係ですか。うん、確かに難しい話ですよね。タテマエ人間になった原因を全部色覚異常に求めてしてしまうのはあきらかに間違いだとは思います。しかし、全く関係ないといっても嘘になります。
それは正月に書いた掲示板への書き込みの通りです。
色んな状況が組合わさってそうなってしまったんであってあくまでも色覚異常はその要素のひとつでしかないっていう前提のもとで話をしないと‥‥。なんか大きな誤解がおきそうだよなあ。
タテマエな人格の出現は「出る杭は打たれる」というすごく当たり前なことに直面した中学時代に始まります。
幼少の頃はワガママしたい放題やってましたが、「聞き分けのいい子」がどういうものか解かった時点で親の愛を受けたかった私はいい子に生まれ変わったようです。
さすがにそんな記憶は残ってませんが‥‥。
その頃は幸せでした。世間っていうヤツを知らなかった事もあるでしょう。親の期待するいい子をそのまんまやっていればそれで良かったんですね。
それでも大して気にしなかったのは自己が確立されていなかったせいもあるでしょうが自己主張するスペースがあったからでしょうか。
私の自己主張は知識偏重主義による単なる知識のひけらかしでした。
自然・社会科学という知識によって自己主張をしたのです。
これは親が期待する「いい子」とそうはかけ離れたものではなかったようで、親に誉められる度に私は知識に貪欲になり、それなりに成績も良かった。その知識を基盤に、自分なりの意見を持って「僕はこう思う」とはっきり言える子供だったんです。何の臆面も怖れもなく‥‥。
しかもその意見はオリジナリティーが溢れていて、あまり一般的ではなかった。良く言えば変わったヤツ。悪く言えばヘンなヤツ。あ、一緒か。
そういう人間を集団はどう取るか?
自分の知識の豊富さを人に自慢する嫌なヤツ…でした。
この天狗の鼻を中学時代にへし折られました。
上には上がいるってことを知り、おまけに周囲の人間により「出る杭は打たれ」てしまったのです。
嫌なヤツは当然、いじめの対象になります。
誤解されると困るんですが、私が受けたいじめ自体はそれほどに深刻なものではなかったんですよね。問題はそれに対する私のスタンスでした。
私はそのいじめに対して毅然とした態度で望んだ結果、それはそれとしてとりあえずは終わりました。しかし、その経験でそういう対処法を見つけた私は、あろうことか自分の態度を硬化させますます嫌なヤツになり下がりました。
自分を理解しようとしない、もしくは自分が理解できない人間は徹底的に無視。無視できない人間については理屈で対処し、あくまでも自分の主張を理屈で武装し、正当化していく。こうやって書くとほんとにやなヤツだな‥‥。
結果、気が付くと周りに友達がいない。いや、いることはいるが少ない。おまけにへんな色眼鏡で見られる。
そこで高校に入るにあたって私は人格を変えてみました。
どういう人格が人に受け入れられやすいのか?
そこで出てくるのが「客観性」というキーワード。
色覚異常や様々な諸環境のもと培われてきた鋭い観察眼と思考回路。
「自分はどうも人とは違うようだ。だから人に敬遠されがちなのかもしれない。じゃあ、他の人と同じになれば受け入れられるかな?他の人‥‥一般的・客観的・普遍的・道徳的な意見。それを前面に押し出して自分の意見はこっちに置いとこう。」
上手くいってしまったんだ。これが。
それがなまじっかいろんな人に一目置かれてしまい…。
かくして私のタテマエ人格は形成されてしまったわけです。
そして、決して自分の望み通りにならない現実にぶち当たり自我を隠蔽して。
タテマエが全ての判断基準となる人間が出来上がりました。
しかし、色覚異常と関係ありそうでなさそうだな。
思考回路的には同じルートなんですけどね。
そう言う意味では確かに関係あるのかなと。
ちょっとこじつけっぽいかな?
PS-開設一周年おめでとうございますっ!!
年明けからものすごいペースでアップし続けるこのHP。
Tanakaさん大丈夫?って誰のせいだと思ってるんだ(笑)。
盛況ですねー。うん、すばらしい。あははは‥‥。
人のHPに書きまくって埋め尽くすのも気が引けるなあ。これだけ書きたいことがあるんだったら自分で作れよと。
そういう声が聞こえる。むむっ!ソラミミか?